人生の大半を、なぜ自分には難しいことが、ほかの人には簡単そうに見えるのか、その理由を探しながら生きてきました。反抗的だから。頑固だから。言い方が直接的すぎるから。興味のあることを大切にしすぎて、周囲から大切にするよう求められたものには関心を持てないから。

そして大人になってから、自分が自閉スペクトラムだと知りました。

診断によって性格が医学用語に置き換わったわけではありません。ばらばらだった過去の経験に、一本の筋道が見えるようになったのです。

「普通」の筋書きから外れて育った

僕はグアヤニージャのマガス・アリーバで育ち、母の家と、父や祖母と過ごす時間を行き来していました。家族とのつながりは強かった一方、周囲の伝統的な文化に自分を重ねる感覚はあまりありませんでした。僕を直接形づくったのは、むしろオルタナティブ文化、スケートボード、RuneScape、そしてインターネットです。

特にインターネットは大きな存在でした。そこには理解できる仕組みがあり、特定の興味を中心につながるコミュニティがありました。地元の社会的な期待を完璧に演じなくても、別の自分でいられる場所でした。人の集まりでは評価されにくかった粘り強さを、ゲームはきちんと評価してくれました。人間関係のルールは読めなくても、技術的な問題にはルールがありました。

当時は、それを自閉スペクトラムという視点で見ていません。ただ、自分なりに生きる方法を探していただけです。

自信は、先に行動してからついてきた

陸軍予備役は、個人の快適さを中心にできた組織ではありません。情報システム運用分析担当として、ほかの人がシステムの稼働を当てにしている環境で、問題を解決し続ける必要がありました。イラク派遣中は、クウェート国境近くのキャンプ・ブッカで、情報システムの管理と情報活動の支援に携わりました。

陸軍から学んだのは、規律と、状況が絶望的に見えてもまず試してみる習慣です。そして、自信が湧いてくるのを待つのではなく、自信がある人間として先に行動することも求められました。

人付き合いの難しさを、自分には根本的な能力がない証拠だと思っていた僕にとって、それは重要でした。仕事ができるようになっても不安が消えたわけではありません。それでも、「自分にはできない」という考えに反論できる証拠が積み上がっていきました。

理由が分かっても、何でも許されるわけではない

自閉スペクトラムだと分かったことで、直接的な話し方、強い集中、対人関係での摩擦、感覚や思考の過負荷、ほかの人が自然に理解しているように見える期待を読み続ける疲れに、説明がつきました。

ただし、説明は免罪符ではありません。自分の言動が相手に与えた影響を無視していいわけではない。学ぶこと、謝ること、伝えること、改善すること。その責任は残ります。

変わったのは、苦労するたびに「自分の人間性が悪いからだ」と決めつけなくてよくなったことです。

それは、とても大きな修正でした。

診断ひとつで、過去のすべてを書き換えない

大人になってから診断を受けると、あらゆる記憶を一つの答えで説明し直したくなります。でも僕は、そこには少し慎重でいたいと思っています。僕を形づくったのは自閉スペクトラムだけではありません。両親の離婚、親族、キリスト教、政治、オルタナティブ文化、陸軍、イラク、科学、父親になったこと、プエルトリコ、そして日本。そのすべてが今の自分につながっています。

自閉スペクトラムという視点は、それらを結びつける助けになります。なぜ社会的な曖昧さより仕組みのほうが安心できたのか。なぜ深い興味が心の安定になったのか。なぜ自信を意識的に練習する必要があったのか。なぜ批判的思考が、学問の道具というより世界を歩くための方法になったのか。

診断された日に自閉スペクトラムになったわけではありません。ずっとそこにあった自分の一部を、ようやく言葉にできるようになったのです。

説明がついても、過去の苦労が小さくなるわけではありません。でも、その苦労を理解し、これからに生かすことはできます。