日本へ引っ越してきて、一週間がたった。
2018年7月4日、いつもの荷物と、それよりずっと重い矛盾を抱えて僕は日本に着いた。これから始まる暮らしが楽しみだった。同時に、プエルトリコに残してきた二人の子どものことを思うと、胸が痛かった。
プエルトリコでキャリアを築く望みなら、もう手放す覚悟ができていた。でも、子どもたちと離れる覚悟はできていなかった。永遠ではない。まず一年、自分が生活の土台を作り、お金を貯め、子どもたちが安全に移れるようにする。そのための別居だった。

博士課程をのみ込んだスケジュール
僕は生命医科学の博士課程に進んで二年目だった。書類の上では、ずっと望んでいた人生に向かっていた。博士号を取り、研究をし、いつか大学で教えるつもりだった。
現実の時間割は、それほど美しくなかった。
毎朝、子どもたちを学校へ送ってから、車で約45分かけて大学へ向かった。午後2時には娘を迎えに出る。息子が3時に終わるまで待ち、二人を家へ連れて帰り、料理をして食べさせる。どうしても大学に戻る必要があれば、子どもたちも連れていった。そうでなければ、戻ること自体ができなかった。
僕が大学にいる間、子どもを見てくれる人はいなかった。足りないものが「もう一人の責任を持てる大人」なら、時間管理のアドバイスなど、ほとんど嫌味に聞こえる。
前の学期には成績が振るわず、一科目を取り下げた。大学に十分いられなかったことが響いていた。RISEに残るには、すべての科目で最低Bを取らなければならない。プログラムから外れることは、子どもたちを養う唯一の収入も失うことだった。
勉強への気持ちを失ったから、キャリアが崩れ始めたのではない。もう一分も空きのない予定表に、押しつぶされていた。
それでも、普通の暮らしは続いた
日本へ行くと決めたのは、出発のおよそ三か月前だった。不思議なことに、その話はあまりしなかった。たぶん、残り時間を数え始めれば、何でもない午後まで全部「最後の一回」になってしまうからだ。
娘は僕の体に絵を描くのが好きだった。腕を「タトゥー」で埋め、爪を塗り、僕がゲームやテレビを見ている横でメイクまでしてくれた。僕は父親であると同時に、使用制限のない画材でもあったらしい。


息子は難しいゲームが好きだった。そこで、七歳の彼にBloodborneをやらせてみた。最初は普通の敵に何度も倒され、泣きそうになっていた。それでも、少しずつ回避がうまくなっていることに気づいた。諦めずに続け、ついに最初のボスを倒した。
二人で叫び、謎の勝利ダンスを踊った。ダンスと呼べる動きではなかったが、彼の序盤のローリングよりは少しだけ優雅だった。


子犬、アイスクリーム、学校、落書き、ゲーム、食事。ひとつの暮らしが終わる直前でも、毎日は大げさな音を立てない。たいてい、ただの日常に見える。

よく分かっていなかった仕事
日本で英語を教える仕事に応募した。公立学校に関係する仕事だと思っていたが、実際は民間の英会話スクールだった。求人票はもう少し丁寧に読もう、という国境を越えて通用する教訓を、早くも得ることになった。
大都市には住みたくないと希望していたので、配属先は長岡になった。月給27万円、年間のボーナスは10万円。円が今より強かった2018年なら、悪くない条件に思えた。それ以上に大事なのは、具体的な出発点ができたことだった。
子どもたちの母親と計画を立てた。まず僕が一年かけて生活を整える。二人で貯金し、費用を分担し、翌年の夏に子どもたちを日本へ呼ぶ。先に一人で来たのは、責任から逃げるためではない。大きな移住から、できるだけ危険を減らすためだった。
毎週電話をし、オンラインで一緒にゲームをすると約束した。僕の人生をずっと形作ってきたインターネットが、今度は期間限定の家族インフラになった。
避けてきた別れ
当時、多くの人がプエルトリコを離れていた。若い人たちが、一枚ずつの航空券とともに島の未来から消えていった。引退した親族も去っていった。ハリケーン・マリア後の状況では、残る理由を守り続けることが難しくなっていた。家族や大学の友人にも別れを告げた。
空港では、最後の数時間を話したり、昔のことを思い出したり、遊んだり、抱き合ったりして過ごした。娘は「行かないで」と何度も言った。ずっと父親にべったりの子だった。
息子はゲームの話ばかりしていた。彼は昔から感情を言葉にするのが得意ではない。それでも、僕たちはいつも親友だった。ゲームの話をしていたから、何も感じていなかったわけではない。全部に名前をつけず、その場に立ち続けるための方法だったのだと思う。
子どもたちの母親も沈んだ表情をしていた。一年なんて、きっとすぐに過ぎると伝えた。やがて話す計画も、使える時間もなくなった。空港のゲートで、僕たちは別れた。

変化には慣れた。でも、静けさには慣れていない
僕は軍で八年間勤務した。そこで、変化に対応することを学んだ。新しい指示、新しい場所、新しい問題。そして計画がほとんど飾りになっても、とにかく前へ進むこと。
その経験は飛行機の中で役に立った。悲しかったが、楽しみでもあった。仕事とアパートがある、まったく新しい場所へ向かっていた。自分の足で立ち、家族のために何かを築けるかもしれない。そう思えたのは久しぶりだった。

今は研修が始まり、アパートも整った。少しずつ生活のリズムができている。
そうなると、子どもたちがいないことの不自然さが目立ってくる。目が覚めると、二人がいるはずだと思ってしまう。何年もの間、朝は誰かの「お腹が空いた」「送って」「手伝って」、あるいは片方の靴が消えたという緊急事態で始まっていた。今いるのは僕だけだ。
日本での暮らしも孤独になり得る。片づいた部屋と順調な計画は、音を立てない。安定した場所が、自動的に家になるわけでもない。

一年
電話をすると、子どもたちはもう学校のリズムに戻っている。普通に話し、お互いに見せたいものを見せ合う。その普通さに安心する。同時に、閉じられる画面越しに家族の日常を見るのは不思議でもある。
この一年がどうなるのか、まだ正確には分からない。ただ、この一年で何をしようとしているかは分かっている。
僕は、プエルトリコで思い描いていたキャリアを葬る覚悟で島を出た。ハリケーン後も停電は続き、学校への信頼は揺らぎ、若い人たちは次々に去っていた。それでも残ることは、もう我慢強さには見えなかった。可能性が狭くなるのを受け入れることに見えた。
日本はまだ、僕の選択が正しかったという証拠をくれたわけではない。でも、余白をくれた。働き、自分の暮らしを持ち、もう一度立ち上がり、いつか子どもたちをより安定した場所へ呼ぶための余白だ。
「一年」と空港のゲートで早口に言えば、短く聞こえる。一人で目を覚ますと、ずっと長く感じる。
だから電話をする。一緒にゲームをする。子どもたちの母親と僕は貯金する。僕は働き、学び、このアパートを一人分以上の家にしていく。
子どものいない人生が欲しくて、海を越えたのではない。
子どもたちも一緒に入れる大きさの人生を築くために、海を越えた。